Real Reality
先月の拙文にて異なる背景を持つ集団間において特定課題に関する異見交換を行うに際、それぞれの構成員が持つ内なる辞書に差異が存在するとの仮説について述べた。
かかる違いは個々人において明確に意識されなくても厳然として存在しており、ただ日常的な意思伝達において妨げとなる機会が少ないために人々に意識され難いだけであると考える。
他方、共通点に着目するならば、各人の内なる辞書のかなりの部分に関して、多くの人々の間においてそれなりの共通性が維持されていることも自明である。
特に、人々の生命や存在に関わる事項及び人知の及ばない超越的な力に係る事象に関連する部分に関しては、
時代背景などによる影響を免れないとしても、同一社会においてはかなりの程度の共通性があるのではなかろうか。
例えば人間の生存に対する自然の脅威はその様な事象の一つであると考えるが、ここ数年の間にかかる認識を再考させられる事態に何度か遭遇した。
その一つは昨夏の玄倉川の災害である。本件に関しては問題究明と再発防止に関して多くの有識者が関わっており、筆者ごときが付け加えるなにものもない。
しかし、大多数の社会構成員の間で共通の認識を持っていると思われる自然へ災害に関する情報が、本例においてダム管理者側から罹災者の側に適切に伝わらなかったのではとの疑問を持った。
報道によるとダム管理者と地元警察とは罹災者に対して川の中州から安全な場所へ移動するよう数度の説得を試み、一部の方々は野営場所の移動に応じた由である。
この事実から情報の伝達努力は一定の効果を修めていることが確認できるものの、なお多くの方々が尊い生命を失う惨事を未然に防止することができなかったこともまた事実である。
ここで難を逃れた方々が北海道弁で表現するところの「いのち根性が汚い」という、自らの行動に負い目を感じつつもなお野営場所を移動した事実は、
その方々は発せられた情報から起こりうべき事態を実体的危険として認識し得たからに他ならない。
他方、中州に残られた方々は同じ情報に接して、異なる認識を持ったが故に避難行動への選択を採り得なかったのではないかと推測する。
両者の判断の違いを分けたものは、本来大きく異ならないと考えた自然災害への認識に関する内なる辞書に差異ではないかと考えた。
油断があったとか、警告を軽く見たとか解釈の仕方はいくらでもあろうが、発せられた警告の本質を伝達するのに失敗したと考えた方が問題理解に近いのではなかろうか。
その原因には種々の要因が複合的に作用していることに疑いはないが、一部の野営者が移動に応じたことを勘案するならば、
情報内容は警告の意味を理解するのに必要となる最低要件は満たしていたものと推測できる。
その推測に幾分かの妥当性があるとするならば、受け手の側の理解の仕方に差異があったことが推測される。
新聞報道等の公開情報からのみではこれ以上の推論は困難であるが、改めて内なる辞書の差異にその原因の一端があるとの仮定に立ち話題を展開しよう。
被災者の重要な属性として都市居住者であることに着目すると、彼らは一年のうちの大部分を人工環境下に暮らし、日常的には自然の脅威とは無縁で、
希にこれに接するとしたらブラウン管若しくは印刷物を通じての機会に限られると思われる。
自然災害に関する情報がかかる媒体に偏り、かつそれらが日頃慣れ親しんでいる世界における経験と余りにもかけ離れた内容、換言するならば想像さえも越える現象であるとき、
それらは内なる辞書の中で特異な性格を帯びることも必然の成りゆきである。即ち、自然の驚異に関する情報は自らの存在する世界に起こり得る現象ではなく、
二次元世界の仮構として別世界の出来事として識別される可能性が想定される。その結果、当該事例においてはたとえ記号としての言葉を理解できたとしても、
受け取る情報を内なる辞書にて翻訳する段階においてはそれらの記号は現実感を失ない虚構的な言葉としてしか認識し得ない事態に陥ったのではなかろうか。
従って、危険を告知する側が内なる辞書から実体的な危険を意味するどんな表現を選び使用するとしても、
それが受け手の内なる辞書により翻訳する段階において実体性を失う可能性を是とするならば、今回の惨事は起こるべくして起こったともいえるであろう。
今ひとつの事例は一昨年の栃木県北部から福島県南部にかけての集中豪雨における被災農民の反応であった。
一過性のテレビ情報でありかつ時間を経過しているためその表現内容までは記憶にはないが、
インタビューに応じた男性は当該洪水が経験したことのない想像を絶するものであったと驚いたことに疑問を感じた。
その言葉に嘘は無いことと考えるが、その言葉を発したのが歴史ある白河藩内の農民である事に驚きを覚えたのである。
現地役場への電話による聞き取りにでは当該地域への定住は遺跡時代までさかのぼる由にて、同地域は営々と二千年以上もの農耕の歴史が重ねられた地域であるそうだ。
そして、当該洪水においては百年もの歴史のある社が土砂災害を受けるなど、未曾有の洪水規模であった由であった。
しかし、農業は気象の影響を強く受ける産業であり、長い歴史を有する農業集落であれば、いつどこでどの様な条件下でどの様な自然災害が起こったかなどの災害情報は豊富であろう。
また、土地と住民との関係も密接であることから、当該 地域においてはかかる情報の蓄積と伝承とは維持されているものと考えた。
従って、たとえ個人的には初めての実体験であろうと、あたかも追体験の如くに意識されるのではないかと考えていた筆者の予想がはずされたのに驚いたのである。
上述の二例はコミュニティにおいて受け継がれ、広く培われてきた共通言語の喪失により、コミュニケーションの失敗が起こった事例とみなすことができないだろうか。
そして、両者の違いは前者が同時代における水平的なコミュニケーションの失敗であるのに対して、後者は同一地域における鉛直的なコミュニケーションの失敗と整理できるであろう。
かかる事態が進行した原因としては、一つには治水安全性の向上に伴う洪水被災機会の減少があると考える。
また、高度成長期の人口移動は都市域に膨大な数の新住民を生み出すと共に、個人と社会とを問わず、一まとまりの期間として扱われる時間の単位を極度に短縮する傾向が進行した。
更に、マスメディアの発達は日本全体に画一的な情報と価値感とを瞬時に伝達する技術を獲得する一方、広く知らしめる能力はメディア自体に権威付けをももたらした。
これら事象の社会への波及に関しては、稲作における重要な時期と秋雨とが重なる二百十日や二百二十日は死語にしたことや、
鉄砲水や土砂災害の危険を残した地名も次々と姿を消しつつあるなどに現れている。
また、人工環境にある都市的な価値が伝統的環境の文化圏に浸透し、その土地に由来する習慣等に基づく語彙が失わしめつつあるように感じる。
更に、科学技術信仰の反動としての自然偏重傾向も見られ、優しく美しいばかりの自然観も同時に広がりを見せている。
時間の経過と共にこれら要因が複合的に影響しあい、これまで培われてきた土地にかかる諸表現・情報を維持、積み重ねる営みが途絶えてしまったとは考えられないであろうか。
本件に関して英国人の友人と話題にした際、virtrual realityという表現をヒントに分析を試みることとなった。
この言葉は virtual image(光学的虚像)とreality(現実)との二つの要素の組み合わせで意味を構成しており、現実感を持った光学的虚像を vitrual realityと位置づける。
そして光学的な虚像と非現実との組み合わせはvirtual fantagyとでも呼べ、先端的なSFX映像などがこれに当てはまるのではないかとなった。
次いで、実像世界における現実性と非現実性とは如何に分類するかと言えば、それぞれreal reality とperceived realityとに分類して考えるなら状況が説明しやすいとの意見に至った。
我々は現実世界において五感にて感じたと考える世界をreal realityであると考える傾向にあるが、
個々人が頭の中で構成する像は実は内なる辞書により変換した後の姿でしかありえないので、perceived realityに過ぎないとの結論に達した。
そして、各人のperceived realityにさえ差異が避けられないのであるから、ましてやreal realityとの一致は不可能であり、
両者の間のズレが重大な社会問題を引き起こすことの無いように配慮することが重要となる。
また、人間が時間と空間を支配可能な領域と不可能な領域とが存在することを考えると、前者では人はperceived realityの世界に安住することも可能と考えられる一方、
後者に関しては人知を越える力に関してreal realityな世界観を構築すべく努力を忘れてはなるまい。後者の具体例としては洪水災害などがあり、
人間が如何様に考え対処しようとも、大規模災害に対して時間と空間を制御することはできず、治にいてなお乱を見据えられる内なる辞書の開発、普及、維持が重要となるであろう。
ここ数年、行政に対して情報公開やアカウンタビリティに関する声が高まりを見せているが、
情報を出す側と受ける側とがそれぞれ異なるperceived realityを見ているかも知れないと言う可能性を肝に銘じたい。
北海道開発土木研究所月報2000年7月号
「Real Reality」 by石田享平 より転載
「Real Reality」 by石田享平 より転載