変わったのは


いささか旧聞に属するが、数年前の天声人語で日本語の土木工学は英語ではCivil Engineeringと表現されるが、土木は米国では名実共に「市民」のための事業であるのに対して、 我が国では土建屋のための事業である云々、と公共事業全体を揶揄するコラムが掲載された。 二十数年前に土木を志し最初に受けた授業において、主任教授が全く同じ表現を引用されてこの分野名称がArmy Engineeringと対を成す表現であることを教えられ、 たとえ先端工学がもてはやされようとも自らの専門に誇りを持つようにと励まされた者としては、ただならぬ精神的ショックを受けた。 そこで、大新聞のコラムニストの言ではあるが鵜呑みにするには納得がいかず、このことについて考える機会を持ったことがある。 先ず、キーワードである Civil Engineeringと土木という表現が英語と日本とで如何に定義されているかについて辞書にて確認したところ、 Longman Dictionary of Contemporary English(New Edition)と広辞苑(第四版)とでは次のように記されていた。

Civil Engineering ; the planning,building,and repair of public works, such as roads, bridges, large buildings, etc.
土木工学 ; 工学の一部門。道路・河川・鉄道・橋梁・上下水道・発電水力・灯台・港湾・都市計画などの施設に関する理論及び実際を研究する学問。

何れもそれぞれの国において普通に使われている辞書であり、言葉のレベルにおいては両者の間に本質的な違いはない。 そして、先月の拙文において環境と水工とに関して目的と手段と見なす考え方を述べたが、 同文で水工学を土木工学と読み替えるとき「手段」の対象物たる施設には彼我の違いはないとの考えに達した。

次いで、拙文において「目的」と表現した環境という側面から、治水事業に焦点を当てて更に考察を試みる。 ここで留意した点は、川と人や社会とが相互に影響しあっており、そのダイナミズムの中で目的の変遷を見ることが重要であるということである。 本文ではその推移を概観するに当たり、時代を三段階に分けて考察を行った。 第一の時代は川が自然神の一つともあがめられ、人々が安全を確保できる境界域付近に定住した時期で、有史から江戸期までをこの時代に分類した。 第二の時代は人が川の領域深くに進入し続け、結果として人為と自然とが陣取り合戦を行った時代で、明治期から昭和の高度成長期頃までをこの時期に分類した。 第三の時代は高度成長期以降を指し、河川による脅威が常態化していた時代が去りつつあり、人が川との間で新たな関係を模索し始めた時期とした。

第一の時代に川は自らの論理にて自在にその姿を変容させ、一方人間は水辺のほど近くに居を定めようとしながらも川との距離を測りつつ付かず離れずの位置を保っていた。 この背景としては前者は人間との関係において圧倒的な力の優位をほこり、後者に関しては人口圧力が低かったことから氾濫原はその特性を生かした土地利用を行う余裕があったことがあげられる。 この時代における治水「目的」としては洪水被災の受容を前提とする氾濫の制御であり、 川と人間との棲み分けにより居住環境の安全を維持しつつも自らの活動可能環境の拡大を図ることにあったように考える。 従って、目的達成のための「手段」としては河川のエネルギーを川の中に封じ込めるというよりはむしろ、 氾濫させるにしてもその勢いをそぐ等の工法を施すことにより被害を軽減する方策が採られている。 この時代を象徴する河川工法としては、かすみ堤、お囲い堤、聖牛その他が考えられ、その際に利用した資源としては人力と土、石、木材等の自然材料である。

第二の時代に入ると人口急増に伴い、居住区域が氾濫原へと拡大して現在に至っている。 また、近代工業の勃興により種々の産業拠点が氾濫原野へと進出することを促され、その後の経済発展は土地利用形態を洪水氾濫許容型から非許容型へと徐々にしかし着実に変化させている。 他方、川を取り巻く状況は、流域内の森林の伐採、その農地化や、住宅地化等が降雨の流出過程の変化を誘引し、また人間の居住地域では川筋や狭窄部の固定化などにより、 川が自らの論理に基づいて流れることが阻害される状況が進行していった。 このため、明治期から戦後しばらくの期間については、治水対策を段階的に進めていったにも関わらず、改修効果は流域の変化に追いつくことができず、 洪水被災の頻度は減らず、逆に被害規模が大きくなる状況も生じた。その様な状況を背景として、この時期における治水「目的」としては、 人々の生命と財産並びに活動の場を洪水氾濫から安全な環境にすることが緊急かつ唯一の行政課題に祭り上げられることになる。 他方、社会経済の発展は治水「手段」の選択範囲を広げ、また洪水氾濫区域内の資産増大と経済成長とは治水投資規模の拡大を可能ならしめ、 その結果多くの河川は原始河川から改修河川へとその姿を急激に変容させた。この時代を象徴する河川工法としては連続堤、捷水路、ダムその他が挙げられ、 その際に利用した資源としては、大型重機、鉄、コンクリート等の人工材料であった。

第三の時代は、治水投資の蓄積と価値観の多様化とによる人々のニーズの変化が背景となり始まった。 即ち、前期の終わり頃からは河川改修効果が徐々に発現し、各地で水害規模の縮小やそのインターバルの長期化が進んだ。 他方、人口の移動は各地で新住民を作り出し、核家族化や個人主義の浸透も相まってコミュニティ内の関係希薄化が起きた。 その結果、自然災害に関する伝承が困難化するなどして、水害に対する認識の低下と安全に対する偏見が形成された。 そして、災害頻度が減るに従い、人々はその記憶の中に残す原風景としての川と身近にある川との間の相違に気づいた。 そこで、人々の要求は安全ばかりでなく、河川周辺の生態系、景観、歴史的関わり等、周辺環境とのバランスを求めるに至る。 この時代における治水「目的」としては、活動圏における安全な環境の創出、アメニティの増進、人間の生存に関わる生態系の保全等を同時に求められるに至る。 ここに、目的を達成するための「手段」は工学的裏付けは当然のこと、生態系を含む他分野への配慮も同時に求められ、新たな発想が必要となった。 従って、これからの時代を象徴する工法は高規格堤防、性能に基づく工法その他が挙げられ、その際に重要となる資源等としては技術者の英知、 即ち改修箇所にあるものを見極める認識眼、異分野の科学を理解する能力、異なる価値を統合する識見、技術を現場に応用する工夫等であろう。

時代の流れに従って川と人間との関係が変化した状況を少々乱暴にたどったが、時の流れの中で変わりゆくものと変わらぬものとが混在しつつ流れを形作る様子がかいま見える。 近年、川は人為によりその外見を大きく変えられ、そして残された自由度の中で新たな変化を続けているかに見える。 しかし、人間と川との関係におけるクリティカルな状況を想定すると、洪水流量がその川の臨界を超えるとき、川は人為的拘束の枠を越え自らの論理で流れることは従前と全く変っていない。 変わりつつあるのはむしろ人間の川に対する関わり方の方にある。即ち、人間は川の恵みを期待しつつも恐れを抱いていた時代には、 自らの活動環境における安全確保が治水事業における必要十分条件でありえた。 しかし、治水安全度が高まるにつれて本来川が有していた環境機能の維持・保全を十分条件とすることの必要性を再認識し、 更には環境機能を必要条件とすることさえ視野に入れるまでに価値観の変化を遂げている。両者をつなぐ治水対策に関しては前段で象徴的な工法等において差異を強調したが、 その本質は変えられてはおらず、川に対して行う具体の工事は澪筋を削り、堤を築きそして流勢を殺ぐ等、その時代のニーズと使用可能な資源とに合わせて工法を選択しているのみである。

以上の考察から河川事業は目的と手段との因果が繋がっており、Civil Engineeringたりえることは自明と考える。しかし、その構造には時代の流れにより微妙な変化が生じている。 第二期までは公共事業で水害の恐れを軽減する手段を講じるならば、「市民」の要求に直接的に応えていることが誰にでも実感できた。 しかし、第三期に至ってはそれ以前と全く同じ手段を同じように講じたとしても、必ずしも「市民」から満足を得られない状況が生じつつある。 その原因としては既述のように、国民の価値観の多様化に基づく環境思想の高まりと、災害インターバルの長期化等に起因する安全の偏見がある。 従って、安全環境と自然環境との両者を満足するアプローチが重要であり、分野を越えた因果の究明と価値の総合とが今日的課題となっている。 また、人間と川との関わりにおいて、自然災害の脅威が真に払拭される状況が確保されているのであれば問題はないのであるが、 現状は治水安全度向上に伴い中小の災害が少なくなっただけである現実を踏まえるならば、安全偏見の払拭と起こり得べき災害への正しい認識の形成とが重要である。 変わらぬ自然の営為と移ろう人の欲求とを同時に視野に入れながら、整備すべき施設よりはむしろ提供すべきサービスを追究することが、 将来とも土木工学をCivil Engineeringであり続けさせられる方策ではなかろうか。

北海道開発土木研究所月報2000年5月号
「変わったものは」 by石田享平 より転載