新しい革袋


ユニバーサル・デザイン(以下UDと記す)について多くの人々と異見交換する中で、専門家ではない方々の数人から表現は異なるものの同根の疑問を投げかけられた。 曰く、責任のある立場にある機関や担当者がUDを標榜するなどは言い過ぎで、空想的な目標を軽々に掲げることは如何なものか。また、UDなど看板倒れではないかなどの指摘である。 なるほど、英和辞典をひくならキーワードの形容詞universalは「万人の、万能の」である一方、UDで設計する環境や製品を使用できる人々に限界がある現実と比べるとき、 そのように感ずるのもむべなるかなである。

この疑問に対する答えは簡明であり、限定的な意味で用いられる専門用語と慣用的語法との混同に発する誤解である。 即ち、著者が用いるUDはロン・メイス博士らにより定義された専門用語であるのに対し、聞き手らはそのように理解しつつも形容詞の持つ慣用的な意味に影響され、 そこに生ずる落差から疑問を覚えたものと推察する。 つまり、それらの人々は英語の形容詞universalが観念的な表現で、無差別、無限定にすべてを包括する点に非現実性と疑念とを覚えたようである。 メイス博士らの定義に立ち返ると、UDでは「可能な限り最大限」誰もが使える設計を目指すのみで、無限定に万人が使える環境や製品にするなどとは言っていない。 従って、UDを標榜することは無責任でもなければ、誇大表示にも当たらないことは明らかである。 ただし、UDの普及が拡大につれて、上の問いかけが誤解とは切り捨てがたい「なんちゃってUD」も増えつつあるようだ。

「新しい酒は新しい皮袋に」という言葉があるが、UDの提唱者らは新たな概念を敢えて古い革袋に押し込んだと思わせる節がある。 J.Mueller氏は「この文章のもつ多義性は 議論を引き起こすところに有り難みがある」と書いている1)。 著者は同氏がこの表現に込めた真意を知らずただ想像するのみであるが、上述の人々にUDへの疑念を抱かせたのは提唱者らの思惑通りであるのかもしれない。 即ち、このような疑問を契機に、多くの人々にUDについて真剣に考えて欲しいとの目論見のように考える。 他方、専門用語が内包する限界性への意識の薄い「なんちゃってUD」も想定の範囲内なのだろうか。 それらは専門用語と慣用的語法との狭間にある「可能な限り最大限」の境界とそれを区画する条件との関係が曖昧であり、折角の新たな理念の核心部分が溶解する恐れがある。 ともあれ、多様なUDが我が国で地歩を固めつつあるようだ。

国立国語研究所外来語委員会は昨今の外来語の頻用を受け、UDを含め多くの言い換え語を提案した由である。 ところが、UDの言い換え案たるや「万人向け設計」とのことで、先に誤解であると断じた内容そのものである。 専門用語は「可能な限り最大限」誰もが使えるように、設計上の改善努力を続ける設計理念である。どこまで改良しようとも目標である「万人向け」設計は見果てぬ夢との考えである。 専門用語はいささか青臭い雰囲気を漂わすが、言い換え語は耳障りが良い一方で凡庸な普通名詞に変容していないだろうか。 あまつさえ、その快い響きのラベルを貼り付けただけの「なんちゃってUD」まで現れるとき、冒頭の誤解が実質的な問題に変わる恐れさえある。 ある種の課題に立ち向かうために考案した概念が一般化する際、分かり易い置き換えによりその本質が蝕まれる危険である。 専門用語の普及はときとして発案者も予期しない方向に向かう可能性を教えてくれる。

本月報を読まれる方々には研究や行政の先端で、変貌する社会に即応する社会基盤の整備計画に携わる方々が多く、その対応策として新たな概念を考案したり、 海外や他分野から移入したりする機会もあろう。その際、新たな用語の導入は新たな概念の展開をより自由なものにし、また国民への浸透を促進する効果も期待できるかもしれない。 しかし、どんな革袋を使うにしてもそれに入れ込む内容との関係が最重要事項であり、表現の出自まで踏まえた使用もaccountableな行政において必要な配慮と考える。

参考資料
1) Strategies for Teaching Universal Design; 編集Polly Welch, Adaptive environment, 1995

寒地土木研究所月報 2006年10月号
「新しい革袋」 by石田享平 より転載