鏡像の世界


飛行機がパリを発ったのは日付が変わる少し前であった。離陸してしばらくは窓外に街の灯が現れては消えていったが、それも途絶えがちとなり、飛行機は漆黒の闇に包まれた大陸深くへと進んだ。 機内は照明が落とされ、乗客の多くが彼の地での活動に備え休息をとろうと努めている。ふた昔前、ザンビアに赴任する最後の旅程であった。 ところが、パリのホテルを出発して以降、生後五ヶ月半の息子はぐずり続けていた。腕から降ろそうとすると、とたんに声を張り上げ、周囲の人々の休息を破ろうとする。 東京からの機中では何とか眠りに落ちたのだが、この度ばかりは許してくれなかった。 新任地に無事おり立ったときの安堵感、それと新たな仕事と生活への好奇心と不安を胸に、渇いた口腔に唾を絞り出したことは生涯忘れられない。

漠然とした期待と不安が、実質的な充実と緊張に変わるのに何日もかからなかった。 そしてザンビアで過ごした3年間の日々は、未知なるものを認識する力の鍛錬、前例のない事象への対応の判断など、貴重な経験の連続であった。 そのような日々をくれたのは、ザンビアの風土とそこで出会った多くの人々である。 そんな中、三十才前後の日本人ご夫婦との出会いが、今も鮮明な印象として残っている。ご主人はアフリカの仮面の研究をされている由であった。 仮面はそれ自体に造形的な魅力や個性を備えているが、同氏はむしろそれの果たす社会的役割を中心に研究されていた。 そこで、仮面が仮面としての真正な役割を果たす機会、場や人々との関係等について実地調査するのが来ザの目的で、仮面を共有する人々の社会に受け入れられることが第一歩と話された。

二度目に食事をご一緒させていただくまで、どれ程の時間を経たか記憶にない。 ただ、ご夫妻は調査の第一段階としてむら社会に受け入れられることに成功された由で、奥様は雨乞いの儀式で巫女的な役割を頼まれるまでに溶け込んだとのことであった。 お二人の入られたむらは首都から遠く離れたブッシュにあり、ご夫妻やむらの人々の生活ぶりなどに興味深い話は尽きなかった。 奥様の話題にはむらの子供らとの交流がことさら多く聞かれた。用済みになって捨てたプラスチック製品を見つけては一旦届け、その上で自分のものとする許しを請う少年。 分けてあげたことさえ忘れた種から収穫した野菜を届けてくれる少女等々。 それぞれのエピソードは異なる機会の、また複数の子供達が関わっていたのだが、むらの子供達が全体としてひとつの人格を持つ像として焦点を結ぶのを感じた。 そして、その子らの純真な姿に親近感と既視感を覚えた。

しばらくはそれを昭和30、40年代に経験した原風景に住まう、田舎育ちの子供らと重ね合わせていた。しかし、彼女と話し、人となりが明らかになるに連れて、彼女の影の存在に気付いた。 即ち、彼女自身の内にある美意識と、むらの子供らの姿とが二重写しとなっているように感じられたのであった。彼女が語る子供達は実在し、エピソードも実話であろう。 ただ、その子供らの行動を支える動機や心象などは、彼女の目を通じて描き出されたそれである。 従って、むらの子供らが彼女の話題の中で繰り広げる行動は実際の子供らの描写であるとしても、彼らの日常的行動から彼女のフィルタを通った後の姿なのである。 それらが彼女の脚色になるというのではない。彼女の内面と共鳴するエピソードが彼女の心を揺さぶり、選択的に語らせているだけなのである。 つまり、彼女の語る子供らは彼女自身の価値観を映す鏡のような存在と映じたのだ。ここに純粋や素朴といった美徳を備えていたのはむらの子供達であり、そして彼女自身であった。

アフリカの地に初めて足を踏み入れるまで機中で過ごした10時間余、不安と期待とが交錯する気持ちを努めて鼓舞していた積もりでいた。 しかし、鼓舞などといった虚勢の下に隠した、庇護者の深部に増殖しつつある圧迫感を、言葉さえ知らぬみどり子は見抜き、映していたのである。 誰もが自らの内面を無意識に映し出してしまうことのある鏡像、それは仮想する実像よりも遙かに雄弁に真実を語ることもありそうだ。 その鏡像は多くが自身の意識上で他者の姿として現れる上に、否定的な面を含め唐突かつ無差別に映し出すことの恐ろしさを戒めとしたい。

北海道開発土木研究所月報 2004年 9月号
「鏡像の世界」 by石田享平 より転載