価値の行方


近頃、我が国ではブランド志向なるものが大はやりのようです。不景気の真っ直中といわれながらもなお、老いも若きも舶来の伝統ある高級品に群がっております。 我が国社会にはそのような人々に対して「馬子にも衣装」とか、「成金趣味」などと揶揄する見識が機能した時代もありました。 ところが、いつの頃からか不釣り合いな「もの」に群がる人々を個性的といい、また「こだわり」などと持ち上げる商業主義的喧伝を真に受ける者が多くなったようです。 ただ、それらブランド品の多くは極めて質の高い本物が多いことも事実で、そのことが問題の在処を分かり難くしているようです。 他方、偽ブランド品なるものが登場し、本物を凌がんばかりの商勢であるとの話題も聞きます。 あまつさえ、酷似した「もの」が安価に手にはいるのであれば、偽物であっても一向にかまわぬというものさえ登場します。 本物がその価格相応の価値があり、偽物が元来二束三文の品であるにも関わらずそこそこの価格であることを考えるとき、どちらが賢い買い物であるのか大いに困惑します。

かかる価値の倒錯が起こる理由の一つとして、時間に対する評価の未成熟があるるとの見方もできるように思います。 本物のブランド品の多くは時間の経過に伴う価値の劣化が少ないのみならず、ときとして時間の経過が価値の増大を生むケースさえあります。 ただ、そこにはその「もの」に相応しい人間と、それに応える「もの」との間の相互関係があるのではないでしょうか。 そして、ある時間経過の中でその「もの」を熟成させ、かつその価格に見合うだけの価値を引き出せる人々の存在こそが、非常に高価なそれらを商品として市場での流通を許してきたのです。 そのように考えるとき、その「もの」が価値を内在させているとはいえ、それを引き出す能力がなく、タンスの肥やしにして満足している人々も、 偽物にそこそこのお金を投じる人々と価値判断に抱える問題の本質に大差がないように思われます。 いずれにしても本当に価値のある「もの」だけがそれに相応しい扱いを受ける資格があり、そうでない「もの」はときが冷徹な審判を下すのを待つよりないでしょう。

公共施設の分野において特にここ十年ほどは、ときの淘汰のシステムがその大なたをふるった時代のように感じます。 即ち、バブル期において 地域の「個性」や「こだわり」などともてはやされた施設どもが、 実はただ物珍しいだけの「模倣」や浅薄な「独りよがり」であったなどと再評価された例もあるようです。 そして、それらの多くがときの経過とともにに周辺景観や街並みになじむのではなく、むしろ消化不良の異物としての存在感を強めてはいないでしょうか1)。 更に、それらのいくつかが無用の長物ではすまされない、地域の大変なお荷物になり果てている事例は決して偶然の仕業とは 思えません。 それら一つひとつの施設が持つ真の価値と投下した対価に関し、本物と偽物に対する高価な対価とそこそこの対価の組み合わせについて、 如何なる文脈で語られるのか検証なしに次の段階には進み難い状況にあるように考えます。

水中トンネル工法に関しては、事業化が有望視されていた漁港において橋梁方式を採用されることとなった由です。 残念なことではありますが、今の時代が水中トンネル工法に味方しなかったものと思われます。この技術はその価値を実地で試される前に、時代とときの厳しい淘汰に曝されることになりそうです。 しかし、水中トンネルがある環境条件下においてその優位性が発揮できる工法であって、またその技術が本物である限り、ときは必ずや相応の審判に及ぶはずです。 そして、ブランド品と同じように、その受け手である社会がその真価を理解し、それを活用するに足る能力を持ち、その価値を引き出すことができるようになるときを待つことになるのでしょう。

参考文献
1) 例えば、偽装する日本 -ディズニーランダイゼー ション- :中川理、彰国社、1996年2月

「水中トンネル調査会会報」2003年4月
「価値の行方」 by石田享平 より転載