言葉による呪縛
怪我の後遺症にて車いす生活を始めた頃、各所で立ち往生する経験を致しました。
それらは医学的な機能障害に起因するハンディキャップと呼ばれるものであり、その多くは受傷以前の発想法でも想像の範囲内にある事象に感じました。
他方、いつも頭の隅で感じながらその実際の姿を認識できない、妙な違和感が同時につきまとい、それが何であるのかについて了解できるまでには数年の時間を要したのです。
その正体について端的に申しますと、自らが使おうとする言葉の意味が、受傷の前後で微妙なずれを生じさせていると感じたことでした。
即ち、四十年余をかけて作り上げた内なる辞書を適用しようとすると、自らの言葉や表現が本意からずれたり、適切を欠いたり、嘘臭くなったりするときに苛立ちを覚えていたようです。
言葉は意思伝達のための道具であると同時に、思索のための道具でもあります。
そして、人は自らが属する大小の「社会」において、その構成員の間で 共有する最大公約数的な認識に基づき自らの辞書を編纂します。
そこで、異なる背景を持つ集団の構成員の間では、特定の言葉の間で意味にずれの生ずることは 否定できません。
しかし、人は他の集団に特異である言葉を理解しようとする場合であっても、先ず自らの辞書に拠らざるを得ません。
その辞書と対照しながら新たな概念の何たるかについて理解しつつ、辞書を充実させる手法を採ることになります。
神経心理学の医師である山鳥重氏は知覚心象と記憶心象という表現を使い、人は感覚器にて知覚したことをもって分かるのではなく、
その知覚した心象をそれまでに蓄積してきた記憶心象と比較することで、そのなんたるかを理解すると言っています1)。
例えば、我が国にトラやラクダという生物に関する知見の全くなかった時代に突然トラが出現したならば、人々はその動物を大きなネコの一種、またラクダなら馬の一種とみなしたかも知れません。
即ち、自らの辞書にある 概念の中で最も近い言葉を当てはめることから始めねばならず、その差異や類似性を認めつつ理解を深めることになるのです。
20世紀における科学技術の躍進はそれ以前の進歩に比すべくもなく大きなものがありました。それを可能ならしめた一つの要因として、技術分野における専門化の先鋭化が挙げられます。
しかし、高度に専門化された科学技術の成果が人間の幸福に直結した時代は、既に過去のものとなったように思われます。
具体的には専門分野における価値の最大化の追求は、環境上や倫理上の社会問題を招く例も多くなりました。
また、日常生活への還元レベルで考えると、モノの豊かさや生活における利便性などを得ようとするとき、何か別の大切なものを代償にする覚悟が必要な時代となったように思われます。
ただ、それらの利害得失が個人、地域、国、世代等を越えた形で表れることが多く、その影響が外部不経済化する事態も少くないことが、
事態の理解や解決を一層複雑化、困難化させているように思われます。
これら地域、文化や時代を超えたグループ間における得失の均衡が技術開発や応用における課題となっているように考えます。
ここに異なる背景を負う人々におけるコミュニケーションの重要性が明らかになります。
しかし、前段で述べましたように、人はそれぞれが属する「社会」において培った辞書を頼りに考え、他者と交わりを持ちます。
そして、ある種の言葉は「社会」により独特の切り口に拠ったり、特有の価値観が 織り込まれることもあります。
その結果、我々は自らが属する「社会」の価値観のみが自然なもの、唯一絶対なものと思い込む傾向にあります。
他方、誰しも自らが依って立つ種々の基盤上に自己を確立することを考えますと、無色透明であることの方が不自然とさえ思われます。
そこで、自らの辞書の限界を常に意識しつつコミュニケーションをはかることで、見えざる言葉の殻を突き崩す継続的な努力が必要な時代なのかも知れません。
参考文献
1) 山鳥 重:「わかる」とはどういうことか、ちくま新書、2002年4月
1) 山鳥 重:「わかる」とはどういうことか、ちくま新書、2002年4月
北海道開発土木研究所月報2002年12月号
「言葉による呪縛」 by石田享平 より転載
「言葉による呪縛」 by石田享平 より転載