ヒト科くれない属あげる種


岩波新書の「現代〈死語〉ノートⅡ1)」を読んでいて久しく探していた「くれない族」という表現に出会うことができた。 同書によると 当該表現は昭和59年の流行語にて、次のように説明があった。

前年に「親や先生が教えてくれないから」と、すべてを他人のせいにする若者がこう呼ばれたが、TBSのドラマ「くれない族の反乱」 (四月から六月)は、 「夫がかまってくれない、子供が言うことをきいてくれない」と、やけになる主婦を描いていた。

この説明からは、その当時主体性がなく第三者に依存する傾向の強い若者や婦人が社会的に看過できない状態にあったことが伺われる。 筆者がこの表現について関心を持った理由は、最近似通っていながらしかし異なる表現を毎日のようにそして余りにも多く耳にするからである。 それは「あげる」という表現なのであるが、このたびは限られた人々による限られた用法ではなく、老若男女また、職業を問わないことが特長にて、 最近ではマスメディアの司会者までもがこの表現を多用しするのが耳障りに感じる。

この表現が使用されている文脈からは、使用者は丁寧語として使おうとしている意図が感じ取られるのだが、 筆者には敬語と言うよりはむしろ不遜な響きが強く感じられ違和感を拭えない。具体例には枚挙がないが、 例えば「目の悪い方々に本を読んであげるボランティアをしてます。」や「多くのファンによいステージを見せてあげます。」 などの表現に矛盾と、違和感とを感じるのである。そこで、類義語 辞典2)にて「あげる」をひいたところ、本件使用方法には次の用法が当てはまるように考えた。

 ~てあげる:補助動詞 : A(話し手・他者)からB(他者)に利益・恩恵が及ぶことを表す。

また、広辞苑(第四版)では丁寧語の意味もあるが、

 あげる :⑥③(動詞連用形に助詞「て」のついた形に添えて)その動作を他にしてやるの意の丁寧表現。(傍点筆者)
 やる :③(多く、助詞「て」を介し動詞連用形に付いて)①同等以下の者のために労を執り、恩恵を与える意を表す。

となっている。上例において、ボランティアは自発的動機付けに従って行う行為、お為ごかしに施しを行うのではないことを考えるならば、前者には論理的矛盾があるように考える。 また、後者に関しては表現者自らの自発的な創造性が希薄な印象と、自分が演じようとしている作品に対する過信と受け手を見下す傲慢さを感じるのは筆者だけであろうか。 言葉は生き物であり、時代と共にその包含する内容を変え、人も進化異化していくことは当然のことである。 しかし、これらの表現を用いるとき、その使用者達は丁寧表現を隠れ蓑として傲慢さを包み隠してはいないと、後ろめたさを感じずに断言できるであろうか。

本月報を購読されている方々の多くは、公共的な仕事を直接若しくは間接に実施する立場にある方々であろう。残念なことに公的サービスにおいてもかかる表現が随所に現れる。 「障害者や老人でも使いやすいような施設にしてあげることが重要です。」のような用法もまま目にする。 肉体的にハンディキャップを持つ人々が通常の条件では使用困難な環境に関し、特別の配慮で改善してあげるという思い上がりがあるとしたら、 そのような意識は公の仕事では厳に慎まなければなるまい。 もしも、公務にあたる方々でヒト科くれない属あげる種に属される向きがおられるとしたら、こんな見方もあることをお考え頂ければと思う次第である。

参考文献
1) 現代〈死語〉ノートⅡ:小林信彦、岩波新書
2) 類義語使い分け辞典:田忠魁、泉原省二、金相順、研究社出版

北海道開発土木研究所月報2000年7月号
「ヒト科くれない属あげる種」 by石田享平 より転載