盲人の国


英国には「片目の人間は盲人の国では王様だ」ということわざがあるそうです。読者の皆様はこの表現から何をどのように想像しますでしょうか。 その論理は当然のようであり、敢えてそのように提示するのだから何か特別な意味があるようにも感じます。実のところ、筆者はこの意味を知りません。 英国人作家のH.G.ウェルズは短編小説「盲人国1)」で、この表現を起点として興味深い物語を展開しました。 この盲人の国で繰り広げられる悲喜劇が、ユニバーサル・デザイン(以下U.D.と記す)を考える上で有益なヒント示すと考え、ここに小説の背景とその環境的な問題についての私見を紹介します。

小説の大枠を紹介しますと、アンデス山脈の奥深くの谷間にある村が舞台です。その村は大規模な土砂崩れにより外部世界から隔絶され、後に他の地域の人々から忘れ去られます。 そして、時間を経るうちに奇病が流行り、村人は徐々に視覚を失い、生まれる子供らが皆盲人となり、ついには盲人だけの村になります。 その村から晴眼者が居なくなってから更に長いときを経たのち、壮健な登山ガイドが村に迷い込むことから物語は始まります。 主人公の登山ガイドは村人の全員が盲人であることを知ったとき、自分だけが視覚を有することを優位性と考え、自らを王様となるべき人間と考えたのですが、 実際には幾多の困難に立ち向かうことになります。その主人公が遭遇するエピソードを綴りつつ物語は進むのですが、ここでは盲人の国の社会設定を紹介するとともに、 環境的側面から分析を加えます。

この社会の特徴は一日が昼と夜でなく、暖時と寒時に分けられることです。暖かい暖時に眠り、寒い寒時に働くのが村の習慣でした。 また、この村では全員が盲人となって久しいため、「見る」という言葉が失われました。更に、生活や労働の環境は視覚でなく、聴覚や皮膚感覚などを前提としています。 その他我々の社会と異なる点が多々ありますが、細部の紹介はこれまでにして本論に戻ります。

視力に頼らないシステムの村において、比較的気温が低い夜間に働き、暖かい昼間に休息をとることは合理的な選択でしょう。 しかし、この生活習慣は主人公が持つ特殊能力、視覚を活用するのに不都合でした。例えば、夜間は視覚に頼り難いため、主人公は移動等に不利を背負い込みました。 そして、闇夜に歩道を外れるなどの失敗もあって、馬鹿者扱いされる事件まで 起きました。また、この村社会では「見る」という概念がなく、 「見る」または「見える」ということを他の言葉で村人に伝え、認識させることは不可能でした。あるコミュニティの全員が理解しない概念を強弁し続ける構成員が現れたとき、 その構成員はある種の障害を持つ、または秩序を乱す危険な者とみなされることも当然の成り行きでしょう。聴覚や皮膚感覚で周辺状況を認識するように設えられた環境は、 視覚を主たる認識手段として慣れ親しんだ者にとって、障壁だらけの環境でした。盲人の国にあって王様となるべき運命を得たはずの男は、 実は重大な社会的ハンディキャップを負っていたのです。この倒錯をもたらす要因を考えるとき、U.D.理解へのヒントが見出せるのというのが筆者の視点です。

主人公の不幸は彼が少数者であることに起因します。即ち、社会習慣、文化、生活環境など社会を構成するすべてのシステムが、多数者中心に作り上げられる一方、 少数者への配慮がないため、主人公とって村は障壁だらけでした。我々の通念からすると村人達こそが視覚障害者で、主人公は晴眼者です。 しかし、この隔絶された社会では、主人公が障害者で、村人は健常者の如くです。現に、闇夜に活動する際、視覚的に機能障害のある村人達はなんら支障がない一方、 晴眼者である主人公は目が見えるにも関わらず、否見えるが故に移動制約者です。主人公の移動制約は肉体的な 機能障害を原因としません。 ここに身体的な機能障害があるため移動障害者となるという我々の常識は崩れます。そして、この社会システムが主人公をして移動制約者にする構図が見えます。

我々が通常使用する言葉を用いて、再度整理します。世界保健機構は肉体的な機能障害や、物理的障壁について、次のように整理し説明しています2)。
   impairment : 医学レベルでの「機能障害」
   disability : 機能障害の結果としての「能力低下」
   handicaps  : 機能障害や能力低下の結果としてその個人に生じる「社会的不利」
盲人の国で医学レベルの「機能障害」を持つ者は村人達ですが、しかし機能障害故の「能力低下」をかこちつつも「社会的不利」はありません。 他方、主人公は医学レベルの「機能障害」はありませんが、聴覚や皮膚感覚が相対的に低いだけです。その結果「社会的不利」を被っております。 この構図は医学レベルの機能障害が出発点となり、それ故の能力の低下を経て、社会的な不利に至るという構図が崩れ、上の整理が絶対的でないことが分かります。

いささか穿った視点になりましたので本道に戻しますと、世界保健機構の整理に異を唱える考えは毛頭ありません。 ただ、すべてをこの論理に押し込めることで、見失ったことはないのかという疑問を投げかけたいだけです。 種々の移動制約を持つ人が富士山に独力で登頂できないことは、従来の論理で説明してしかるべきです。 しかし、環境設計上の工夫で避けられる階段や段差を配置する街を作るとしたら、社会が移動制約者を作ると解釈する方が妥当だと考えます。 勿論、後者にも従来の論理を適用できます。しかし、人為的に作る都市環境において、多数者にとって支障はないが、 少数者にとって致命的な障壁となる環境を、故意または無自覚的に選択することは避けるべきです。 盲人の国を例に引くと少しの灯りさえあったなら、主人公は耳が特別に良くなくとも、移動制約者でなくなり、村人と一緒に普通に暮らせます。 我々の社会にあっては、段差や階段等を極力避け、公共交通機関を誰もが容易に使えるように 作るなら、機能障害を持つ人にとって移動制約の少ない区域を拡大できます。

社会の構成員がすべて統合的に暮らせる環境設計を目指すとき、U.D.は有効な概念装置として機能します3)。 ただ、現実には富士山と歩道段差との間には物理的環境に膨大な隔たりがあり、その間には微妙に明度を変えるグレイゾーンがあります。 これに対して障害を持つアメリカ人法4)における「適切な配慮(reasonable accommodation)」と「重大な支障(undue hardship)」という概念装置が有効な調整役となります。 ただし、この装置を起動する際にも注意を要します。それは、我々の使っている言葉や概念の体系が、物理的環境と同様に多数者向けに作られているからです。 盲人の国では見るという言葉や概念が無いように、我々の社会でも少数者の認識では普通に存在する概念を表現する言葉がないかも知れません。 そこで、U.D.に係る取り組みにおいて、自らが盲人の国のいずれか一方を演じている可能性のあることを意識することが必要でしょう。

参考資料
1) 盲人国:H.G.ウェルズ、橋本槇矩訳、岩波文庫、「タイム・マシン他9篇」pp318-355
2) 国際障害分類:世界保険機構、例えば、http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r07/r07_038.htm
3) ユニバーサル・デザインの原則:石田享平、北海道開発土木研究所月報、4月号、pp12-17
4) 例えば、障害を持つアメリカ人に関する法律:田島裕、藤田和弘、中野善達、湘南出版社

北海道開発土木研究所月報2001年8月掲載
2005年5月一部加筆修正