トンボのめがね
障害者基本法の抜本的改定が1993年にありました。その後、交通バリア・フリー法が2000年秋に制定されるまでの間に、環境整備や制度改革に関する法律がいくつか整備されました。
他方、これら法律に基づく義務的な環境整備を待つまでもなく、障害者の活動環境を整える動きが高まりつつあります1)。
このような社会的潮流を見るとき、隔離に始まった我が国の障害者福祉行政は保護を経て、統合へと進行するように見えます。
しかし、このような施策が限定的領域から日常空間へと拡大するにつれ、種々の摩擦や軋轢が起きることは避けがたく、各種施策が具体化 される際の不協和音を見聞きするようになりました。
そのような情報に接するなかで、国民は自らに関わらない時は寛容である一方、自らに関わるとき好意的でない反応を隠さないように感じます。
誤解を恐れずに申しますと、このねじれが起きる原因は福祉施策に対する寛容が個々人における理性的同意に基づくよりむしろ、感情的同情に基づくことにあるように感じます。
右推測に幾分かの妥当性があるならば、自らに不利益が生じない限り理念・理想を優先し、逆の場合に自らの好悪や利害を優先することは当然の帰結でしょう。
過日、国立公園内の散策路を車いすで使いやすい環境に整備する計画が持ち上がった際、異なる価値との摩擦が生じたケースについて筆者なりに整理しました。
北海道新聞1999年1月16日付朝刊の一面トップの記事にそのような事例を見ました2)。大見出しは横書きで「車いす対応に賛否の声」、
中見出しは縦書きで「(阿寒国立公園)自然探勝路舗装を計画」、「(自然保護関係者)土の感触が大切」、「(利用者)障害に配慮歓迎」とありました。
大見出しから受けた印象は、国立公園内の探勝路を車いす対応に改修すると、自然環境保全上の悪影響が危惧されるという対立関係と考えました。
しかし、中見出しと記事を読みますと、探勝路の改修に対する反対意見は「土の感触を大切にして欲しい云々」が4回繰り返されるのみでした。
これより反対論の主たる論点は、生態系の保全に係る問題ではなく、自然活用における利用環境にあります。
旧聞であり記事に賛否両者の意見がどの程度正確に反映されているか知る由もありません。
しかし、紙上で述べられた賛否の構図は「既設の探勝路を車いす対応に改修」vs「自然の土の感触の維持」でした。
ここに歩道改修を歓迎する立場の論拠は詳述されておりません。当該探勝路が一般の人々に植物群落を開放した経緯を踏まえ、車いす使用者も等しくその恩恵を享受したいという趣旨でしょう。
他方、歩道改修に反対する論拠が紙面で触れられています。即ち、地元の自然愛好家の意見として『生の土の感触が失われ、本来の魅力がなくなる』由です。
ただし、ここで主張する当該地区の「本来の魅力」の本質が何で、「土の感触」が失われることがその本質を如何に侵害するか示されません。
ただ、別の識者の発言に『個人的には、あの探勝路では現在のまま土の感触を大切にしてほしい』とだけありました。
当該国立公園内には登山道をはじめ、人間用の通路はほとんど未舗装であり、土の状態が維持されています。土の感触が大切であるとしても、それを楽しめる場所には事欠きません。
他方、自然公園内は地形条件の制約もあり、車いすで進入可能な場所またはそのように環境を整えられる場所は限られます。
もちろん、反対論の有識者が一般論として述べるように、『国立公園のすべての散策路や登山道に車いすのための整備をすることは不可能で、場所毎に議論が必要』であることに異論はありません。
しかし、引用した新聞記事を読む限り「場所毎の議論」としてこの探勝路において「土の感触」を根拠に車いす使用者を排除すべきとの理由が見えません。
この論理が通用するのであれば、個人の趣味的嗜好を唯一の理由として、移動制約者による 公園利用の排除が正当化されます。
読者の皆様には筆者の主張が車いすに依存する者の立場に偏った、一方的な論理と感じられるかも知れません。
また、「自然保護関係者」の方々の立場からすると、筆者こそが自らの都合と論理とを押しつけようとする、当該探勝路をあるがままに楽しむ権利を不当に侵害する偏向者なのかも知れません。
更には、来訪者の大多数が快く思わない可能性のある整備を、滅多に来ない少数者のために行うことは、暴挙と考える人もいるかも知れません。
筆者はそのような反論を受け入れませんが、健常な方々がそのように考えることを故なしとは思いません。
なぜなら、筆者が車いすに依存する生活をする以前のめがねを通じて同じ新聞記事を読んだなら、上述の不快感など想像できなかったと思うからです。
我々は日常的に気づくことなくそれぞれ独自のめがねを通じて事象を認識し、判断し、行動しているのではないでしょうか。一人ひとりが異なる時代を生き、
色々な地域に住まいそしてそれぞれの家族で暮らすからには、「青いお空を 見ていた」トンボと同様に偏向めがねから免れられません。
利害の対立者同士がそれぞれ異なるめがねを通じて認識する「状況」が、実は異なる切り口から見た、異なる事実であることを 認識することから始めることが重要です。
そして、対立を解決に導くには、価値観の異なる人々が共に使えるものさしを見いだすことが必須です。
本件への対処方法を考えるとき、多様な価値観からの視点が必要で、どんなものさしを適用するかにより導かれる結果は変わります。
ここに、筆者が思い当たるものさしとして、弱者救済的な福祉理念に基づくものと差別排除的な人権擁護に基づくものがあります。
前者は日本的ものさしであり、後者は米国流です。しかし、最初の段落で述べたように、筆者は我が国の福祉が必ずしも成熟段階に至っていないと感じており、
米国流のものさしに解決のヒントを求めました。米国における障害者基本法である「障害を持つアメリカ人法3」(ADA)」は「障害に基づく差別の明確かつ 包括的な禁止」を目標とし、
適切な配慮(reasonable accommodation)と重大な支障(undue hardship)という概念装置により、対立する価値の折り合いを模索します。
適切な配慮は障壁の解消が事業の本質に重大な悪影響を及ぼすと証明できない限りその実施が義務となります。
他方、それが事業に重大な支障を及ぼすことが示されれば、適切な配慮の義務を免除できる仕組みです。
本事例にこれを適用すると、先ず公共サービスの運営体は一般に提供するサービスやプログラムへの参加について、障害を理由に排除してはならないという原則から始めます(ADA202条)。
次に、探勝路で提供するサービスの本質を明らかにし、移動制約者に「適切な配慮」を施すことがその本質にどのような影響を及ぼすかを明確にします。
そして、それが「重大な支障」と認められるか否かを検証します。このような過程をたどるならば、相反する主張の間で実質的な議論を交わせるので、
その結果妥協点を見いだす道も開かれるでしょう。どのような場所でもすべての障壁を解消すべきとは考えませんが、
不作為が障害者の社会参加を積極的に排除する場合のあることを理解いただきたいと思います。
参考資料
1) たとえば、車椅子対応トイレのネットワーク形成に関する研究:石田享平、第56回土木学会北海道支部論文報告集(1999年2月)
2) ここに引用した新聞記事を直接ご覧になられたい方は、欄外のアドレスまでご連絡ください
3) たとえば、障害を持つアメリカ人法【原文】【翻訳】、斉藤明子訳、現代書館
1) たとえば、車椅子対応トイレのネットワーク形成に関する研究:石田享平、第56回土木学会北海道支部論文報告集(1999年2月)
2) ここに引用した新聞記事を直接ご覧になられたい方は、欄外のアドレスまでご連絡ください
3) たとえば、障害を持つアメリカ人法【原文】【翻訳】、斉藤明子訳、現代書館
北海道開発土木研究所月報2001年7月掲載
2005年5月一部加筆修正
2005年5月一部加筆修正